何かのコラムニストの記事で読んだのだのだが、最近の女性が結婚しないのは、心のどこかで「白馬の王子さまを待っている症候群」にかかっているからなのだと。
確かに、世界の名作童話を見ても、「白馬に乗った王子さま」はいろいろなシチュエーションで登場する。
例えば、白雪姫。

魔女にもらった毒リンゴで死んでしまった白雪姫。7人の小人たちが白雪姫の死を嘆き悲しんでいる時に、白馬の王子様が表れた。すると、あら不思議。喉につかえていた毒リンゴの欠片が口から出てきて、白雪姫は息を吹き返した。その後、白雪姫と王子さまは結婚し幸せに暮らした。そしてもちろん、魔女はとらえられ殺されてしまった。
例えば、いばら姫(眠り姫)。

魔女の呪いで、美しいお姫さまは16歳の誕生日に死ぬ運命にあった。良い魔法使いが、その呪いを緩和すべくとった方法が、お姫様は死ぬのではなく長い長い眠りに落ちること。するとあら不思議。お姫様と一緒にお城の家臣たちも、お城全体が眠りについた。
それから長い年月が経ち、茨で覆われていたお城に近づいたのが白馬に乗った王子さま。眠り姫の美しさに、思わずキスをする。するとお姫様は眠りから覚め、今まで眠っていた家臣たちもが目覚めた。王子さまとお姫さまは幸せに暮らしたというお話。
例えば、シンデレラ姫。

継母と意地悪な姉たちに虐げられていたシンデレラ。ある時、お城で舞踊会が開かれることになった。どうやら王子さまはそこでお妃選びをするらしい。シンデレラは行きたくてもドレスもなく、諦めていた。そこへ親切な魔女が表れ、シンデレラに魔法をかける。美しいドレスを身にまといお城へ行くシンデレラ。王子さまとダンスをし、夢のようなひとときを過ごす。
しかし、12時の鐘が鳴ると魔法が解ける。慌てて帰ろうとしたとき、シンデレラはガラスの靴を階段に残していく。王子さまは、この靴の持ち主こそ、自分の妃となる娘だと断言、城内におふれを出し、ガラスの靴の持ち主探しが始まった。たまたまシンデレラの家にもお城の使いがやってきて、ガラスの靴を履いたシンデレラこそ王子さまの捜し求めていた娘だと判明。シンデレラは王子さまと結婚し、幸せに暮らしたというお話。もちろん、継母、意地悪な姉たちはシンデレラを虐げた罰を受けたという・・・・。
これらの話だけ見ていると、既婚者の私でさえ、「白馬に乗った王子さまを待っていたい」妄想にかられる。誠実であれば、ガツガツしていなければ、いつか自分の理想とする王子さまのような男がやってくるのではないか、本当にそんな気になってくる。
ところが! 世界の名作童話でも「白馬に乗った王子さまを待っていた症候群」にかかっていたお姫さまが見事王子さまに裏切られ(勘違いされ)死んでしまったという話がある。
それは、アンデルセン童話のひとつの「人魚姫」。
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- 2006/08/01 14:00|
- [書籍]記憶に残る絵本のお話
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- #26▲
世界の名作童話といっていいのか分からないが、大人になって読み返して、新たな発見があった作品も意外と多い。
例えば、「星の王子さま」。
名作すぎる名作で、最近も新約版が出版されたり、これに言及する「恋愛論」「人間関係論」の書物が後を絶たない。それぐらい奥が深く、子どもだけでなく、大人の心を癒すものが「星の王子さま」には込められているのだろうか?
私がこの本を読んだのは小学校6年のとき。だが、正直って当時は興味がまるで湧かなかった。
・・・・大切に育てたバラの花と喧嘩して、自分の小さな星を飛び出し、いろいろな変わった人が住む星を旅してまわり、地球へたどり着いた王子さま。皮肉っぽい物言いをするキツネとであったり、ヘビとであったり、最後は「ぼく」(これは筆者?)と出会い、いろいろなことを学んで大人になった王子さまは星に帰っていく・・・・。
「大切なものは 目に見えない」
と王子さまは、キツネから教えてもらうのだが、この意味は当時の私にはまるで理解できなかった。子どもが読む本として「大切なもの」が何であるか、ある程度具体的に描いておいてくれないと分からないじゃないの!と、少しばかりイライラもした。
結局、夏休みの課題の感想文を書こうと思って読んだのに、なんと感想文を書いていいのかインスピレーションが湧かず、私は結局、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んだ。当時の私は、具体的にどんなことをしたら悪いのか、どんなことをしたらいいのか興味があった。
「星の王子さま」のように、作者の言いたいことをオブラートに包んだような情緒的な作品よりも、「蜘蛛の糸」のようなダイレクトに訴えかけてくる作品のほうがあの頃の私は求めていたのは事実。同じ読んだ後に余韻が残る、考えさせるという意味では大差はない気がするが、それが年齢を重ねると感じ方が変わってくるものだと実感したのは、去年だったか、「星の王子さま」を読み直したとき。
王子さまが大切にしていたバラの花と喧嘩して、王子さまは星を飛び出した。地球について、バラの花が沢山あることを知る。なーんだ、ぼくは、ぼくの大切にしていたバラの花が世界にひとつの花だと思っていたが違うじゃん。どこにでもある普通のバラの花だったんだ、と思ったかどうかは分からないが、ある時キツネに言われてハッとする。
キツネは王子さまと友だちになりたかった。王子さまが好きだった。キツネにとっては、ムギ畑の色なんて今まではただの色だったけれど、王子さまと出会って、好きになって、友だちになったら違うものに見えるんだ。それは、なぜかって? ムギ畑の色を見ると、王子さまの髪の色を思い出すから。
この言葉を聞いて王子さまは、地球で出会った沢山のバラの花と、自分が大切にしていたバラの花が全然違うことに気がついた。見かけ上は同じでも、自分が水をやったり、風除けを作ったりと、バラの花のためにあれこれ世話を焼いた。その時は何も考えなかったが、自分がバラの花のためにそこまでしたのは、バラの花が好きだったから。バラの花を想っていたから。だから、地球で出会ったバラの花とは全然違うのだと。
結局、王子さまはバラの花が待つ星へ帰ることを決心するのだが、私は最後の王子さまの行動がずっと気になっていた。「星に帰る」ということは、王子さまにとっては「自分の星へ帰る」ことなのかもしれないが、「ぼく」や読者にとっては違う意味合いではないのか? つまりそれは、「肉体の死」を意味するものではないのか?
王子さまの肉体は死んでも、魂は永遠に残る。そして王子さまは本当に「星」になったのではないかと。キツネの言った「大切なものは 目に見えない」というのも、そもそも私たち人間が作り出したものが大切なものなのではなく、それを大切に思う気持ち、つまり心が大切なのだと言っていたのではないかと。
世の中便利になりすぎて、何が大切なのか考える時間を非生産的なものとして惜しむ人が多くなってきた。とりあえず目に見えるもの、物質的なものは分かりやすい。大切にするのも簡単だ。だが、目に見えないものをどうやって大切にしていいか、それを考えるとなかなか答えは見つからない。

きっと、みんな心のどこかでは「そんな大切なもの」を求めているのだろう。ただ、心にゆとりがなくて、不安が多くて、考えるどころではないのだろう。だからこそ、人々は何かのキッカケがほしくて、純粋な気持ちに戻りたくて「星の王子さま」を読むのかもしれない。
だからこそ、こうして今もなお「星の王子さま」が大人にも受け入れられ、愛されるのだと思う。
- 2006/07/31 23:46|
- [書籍]記憶に残る絵本のお話
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- #25▲
「なぜか記憶に残る世界の童話」ということで、前回、思い出した童話について考えを述べさせてもらった。
だが、あとで思った。ただ単にイチャモンつけたいだけ? それとも子どもの頃に漠然と抱えていた疑問を、ここにきてあれこれと勝手に理屈づけて、夢をぶち壊しているだけ?
童話は子どもたちが読むもの。子どもに夢や希望、幸福を与えるものと思っているが、ときには、「人生ってこんなに甘くないさ」的な教訓を与えるものであってもいいと思っている。
イソップ童話なんかもそう。グリム童話などもそうだ。ただ、グリム童話では、ここ数年、「初版ではこんなこと書かれていた」と初版の残虐性などばかりがクローズアップされて紹介されているが、確かにその一部分だけ見れば残酷だと思う。
「シンデレラ」の話。 ・・・・王子のお妃になれたシンデレラは、かつて虐げられた継母と姉たちを熱い鉄板の上に素足で立たせ、笑いながらその様子を見ていた。
「ヘンゼルとグレーテル」の話。 ・・・・食べ物がもうなにもない。一家四人このまま飢え死にするよりは、子どもたちを森へ棄ててしまったほうがいいと指南した継母は実の親だった。
「白雪姫」の話。 ・・・・白雪姫の美しさに嫉妬した魔女の継母は毒リンゴで姫を何度も殺そうとした。だが、この継母は実の親だった。
このほかにも、アンデルセン童話の「赤いくつ」などは、残酷というよりも、罪を償うこととはどういうことか、それがなんともまあ、子供心にショッキングが描写で表現されていたりもする。(ミサに行かずに赤い靴を履いて踊りほうけていた娘。いつしか、靴が勝手に踊りだしてしまう。自分の意思ではないのに、踊りをやめることができない。娘は、どうか私の足を切ってください、と懇願し、両足を失うというくだり)
これらの童話は、確かに初版のまま、ストーリーそのものが子どもに読みきかせるには残酷だし、読み終わったあともスカッとしないものがある。子どもから「ママ、どうして?」攻撃に遭い、返答に困ることも必須だろう。
しかし、私が屈折しているのか分からないが、私が大人になってから童話を読み返したり、思い出してみると、こういった「残酷さ」が強調される童話ではなく、一見いいことのように思えるが、実は突っ込みどころ満載だった童話のほうが印象に残っている。
例えば、「幸福の王子」。
街の広場に金箔の王子さまの銅像があった。体中の至るところに宝石が施され、王子さまは何年にも渡って人々の生活を見てきた。あるとき、ツバメと王子さまが友達になる。
王子さまがツバメにお願い事をする。ある貧しい家がある。明日のパンにも困っている。ぼくの目から宝石を取り出して、その家に置いてきて欲しい。ツバメは快諾する。しかし、王子さまはまたお願いする。今度はあの家なんだ。赤ちゃんがいるのだけど、ミルクが変えない。僕のサーベルの飾りに宝石が埋め込んである。それを取り出しておいてきてくれないか。
ツバメは今度も快諾した。しかし、王子さまのお願いことはやまない。宝石を全て取り出すと今度は体を覆っている金箔をはがして貧しい家に持っていってくれとツバメにお願いする。ツバメは渡り鳥。冬が来る前に暖かいところにいかねばならない。
「王子さま、私は仲間のところに行かねばいけません」といったものの、王子さまの熱意に負けて、ツバメは王子さまの金箔が全てなくなるまで王子さまに支持される通り、金箔のカケラを届けた。しかし、季節は寒い冬になっていた。 ・・・・ある朝、雪が降り積もっていた。金箔がなくなってしまった王子さまの像の足元に力尽きたツバメが横たわって死んでいた。
というお話。結構感動ものの話で、泣ける話だったと記憶している。ツバメから宝石や金箔を届けられた人々は、天からの贈り物と思い感謝したというが、でも、それで人々は幸福になったのだろうか?
タイトルは「幸福の王子」だが、意地悪な味方をしてみれば、王子さまは「幸福」だと自分で思っていたが、ツバメは本当に幸福だったのだろうか? 確かに本では王子さまもツバメの天国に召されて永遠の命を授かったとあるが、どうなんだろう。
貧しい、お金がない、といえば確かに「不幸」かもしれない。だが、お金があっても「不幸」な人はいる。一時的に宝石や金箔を貧しい人に届けても、それは一時的な生活費の足しでしかない。あとのことを考えれば、彼らはそこから学習して「きっと、こまったら天から贈り物がくる」と期待してしまったのではないか。だが、期待しても贈り物はやってこない。そのとき、彼らはどう思うのだろう?
王子さまは、自分の持っているものが誰かの役に立ってくれたと思えば、満足だろう。幸福だろう。ツバメは死んでしまったが、南の国へ行くか、王子さまのところに残るかの選択肢があったとき、ツバメはどんな理由にせよ、自分で己の道を選択した。となれば、悔いは残っていないはずだ。
こんなことを考えると、最後まで責任もてないのに「相手に期待させてしまうことって罪」なんじゃないかなと思う。ちょっと深読みすると「幸福な気持ちで天国へ召された王子さま」ということなのかなと。
別に残酷な話がよくて、偽善ぶった話がよくないということではなく、なにかを考えるきっかけを与えてくれるということが大事なのであって、内容云々が問題ではないのではないか?
最近は、「子どもに読ませたい本」というのが紹介されるようになり、絵本選び、本選びも楽になった。だが一方で、暗黙のうちに「読み聞かせには向かない本、ジャンル」ということで、いろいろ通達があるのも事実だけに、そんなに敏感になることもないのに、意識することもないのにと思っただけなんだけど、こんなことを考える私も相当屈折しているなと思ったりもした。
- 2006/07/30 15:11|
- [書籍]記憶に残る絵本のお話
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- #24▲
むかし絵本で読んだ世界名作童話の話で面白いのがあった。
ある国の王さまと三人の娘のお話。残念ながらタイトルは失念。詳細ストーリーも断片的だが、多少自己流にアレンジして内容を紹介してみようと思う。
・・・・王様の誕生日の宴のとき、王さまは娘たちに聞いた。 おお姫たちよ。そなたたちは私をどのくらい想い、敬っているのか? ひとりずつ答えてみよ。
上の姫は、お父さま、私は海よりも山よりも父を愛しております、と言った。
その下の姫は、お父さま、私は金よりも銀よりも父を愛しております、と言った。
そして、末の姫は、なかなか言い出さなかった。
王さまは、末の娘を一番可愛がっていたから、彼女が何に例えて自分を愛してくれると言ってくれるのか期待していた。 姫よ、恥ずかしがることはない。思うままを述べよ。
・・・・お父さま、私は「塩」よりも父を愛しております。
し、塩? そなた、塩よりも私を愛すと言ったか。姉たちは海や山、金や銀に例えて私を愛しているといってくれたのに、そなたは何じゃ! 塩よりも愛するとはどういうことか!
王さまは、一番可愛がっている末娘に言われただけあって、ショックだったようだ。いや、怒りさえ覚えたのかもしれない。顔も見たくないといい、末の娘を遠い遠い国に嫁がせてしまった。
それから暫くして、王さまが病気になってしまった。 末の娘に対する仕打ちの報いなのか、王さまの治める国から塩という塩が消えてしまった。見かけ上は美味しそうなご馳走に見えても、食べてみると味がない。いや、塩気がない。王さまは「塩、塩の味のするものが食べたい」と家臣たちに言うが、そんな家臣たちも塩を長いこと食べていないので、元気がなかった。
王さまは、朦朧とした意識の中で、ようやく末の娘が「塩よりも愛しています」という言葉の意味を理解した。そうか、普段は当たり前のようにあるもので、自分はそれが当たり前すぎて価値があるなんて気がつきもしなかった。だが、こうしてなくなってしまえばどうだ。たった塩のために、自分は病に倒れてしまった。
そもそも、私の「愛情の大きさ」を何かのモノサシで計ること自体が間違っていた。そんなことをして何になろう。末の娘は塩の大切さを知っていたから、この世から塩がなくなればどうなるか分かっていたから、ああいったのだ。そんな塩よりも私を愛していると言ってくれた末の娘を私は・・・・。
と、全てのことに気がついたとき、末の娘が王さまの為に塩を持ってお城に入ってくるところで、このお話は終わったように思う。
「塩よりも・・・・」のくだりが、子供心に印象に残っていた。これは物語だから「塩」なんだろうが、「空気」などに置き換えてもいいだろうね。 まあ、この話を思い出してみて思ったことは、やはり「愛情の大きさ」を個人のモノサシで計るのは間違っているとは言わないが、危険だと思う。
よくあるよね。あの人はすぐに見舞いに来てくれたからいい人だ。一方見舞いにも来ない。恩知らずな奴だ。とか、誕生日を忘れないから義理堅いとか、いろいろ。でも、「相手を大切に思う気持ち」というものは、本来個人の心に留めておいて、それが溢れて表面上に無意識に出てきて、相手に伝わるものだと思っている。
不安になると特に相手の気持ちが知りたい。どれだけ愛されているのか確かめたくなる。この気持ちは人間の不安とか、欲望をよくあらわしていると思うし、私も時々この気持ちに襲われる。逆に、これだけ相手に尽くせば愛してくれるだろう、とかね。
結局、自分の中にある「これだけしてくれる人は私のことを愛しているという証」というものに当てはめて、それを通して相手を見ているのかなとも思う。この王さまがそうだものね。山、海、金、銀には王さまは価値を見出せていたわけだ。だが、塩にはそんな価値は見出していなかった。だから、怒った。それだけのこと。
そう思うと、もっともっと物事をいろいろな角度で見ていかなくてはならないのだろうか。王さまは最初は塩の大切さを分かっていなかった。だが、自分が病気になって初めてその大切さを身をもって知ることになる。 私たちの普段の生活もこれに近いエピソードはゴロゴロしているんじゃないかとも思う。
ただ、それに気がつかないでやり過ごしてしまっているか、気がついているかの違いだけなんじゃなかろうかと。星の王子さまもキツネに教えてもらった。チルチルとミチルも自分たちで気がついた。結局、大切なものは目に見えないのだろうけど、見ようと努力すれば見えるってことにね。
・・・・ただし! どうやって努力すればいいのかは童話には語られていない。これがポイント。「自分で考えろ」ってことなのだろう。
- 2006/07/28 17:00|
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